井伊直虎のふるさと「井の国」を巡ろう!

井伊直虎と深いつながりがある「井の国」(浜松市北区引佐町)の歴史を学びながら歩くルートです。

浜名湖観光圏整備推進協議会による「井の国ガイドウォーク」を基に作成しました。画像も浜名湖観光圏整備推進協議会より提供いただきました。

こんな方に最適

  • 井伊直虎に興味がある方
  • 歴史に興味がある方
  • 自然の風景に癒されたい方

ルートマップ

1. 龍潭寺からスタート

龍潭寺の駐車場からスタートです!
奥浜名湖周辺地図や龍潭寺境内の案内図などを確認できます。

2. 井伊家出生の井戸

龍潭寺駐車場の近くの田園に、井伊家の祖といわれる井伊共保公出生の井戸があります。

井伊家出生の井戸について

寛弘7年(1010年)正月、八幡宮の宮司が井戸の端に捨てられていた男の子を見つけました。その子は七歳までに八幡宮地蔵寺(現:龍潭寺)で養育され、遠州国司藤原共資の養子となり、成人してから当地に戻り、地名を使って井伊共保と名乗りました。井伊家の祖と云われています。
井伊家の紋章は、この故事に由来し井戸(井筒)と傍らにあった橘の木となりました。
また、嘉永4年彦根藩主となった井伊直弼公が御国入りの際、菩提寺の龍潭寺を参拝され、この井戸で和歌を詠まれました。『湧き出づる岩井の水のそこ清み曇りなき世の影ぞ見えつつ』

井伊谷宮へ

龍潭寺へ戻り、山門・仁王門を通り井伊谷宮へ向かいます。

龍潭寺山門について

山門は龍潭寺建造物の中で一番古く、軒瓦には室町期のものも見られます。扁額は明暦元年(1655年)、第六回朝鮮通信使(家継将軍就任祝賀)の金義信(号は雪峰)の書による。幕府供応役の彦根藩主井伊直孝公の依頼により彦根藩滞在中に書いて戴いたものを揮毫したものです。

3. 井伊谷宮

龍潭寺の開山堂からの道を抜けると井伊谷宮に着きます。

井伊谷宮について

後醍醐天皇の皇子宗良親王を祭神とし、明治天皇の勅命により明治5年創建された新宮、旧官弊中社。起源は、延享2年(1745年)信濃の旗本知久監物頼久が龍潭寺十世住職獨叟法達の頼みにより境内に宗良親王の宝篋印塔を建立したことによります。
昭和5年には昭和天皇が奉賛され、昭和58年には今上天皇が皇太子時代に奉賛されました。
長寿・文武にご利益があると云われ、初詣では大変な賑わいとなります。

4. 謂伊神社

天白磐座遺跡

昭和53年、延喜式内社の謂伊神社境内の薬師山の巨石信仰遺跡が発見されました。この遺跡は出土品より、古墳時代から鎌倉時代まで実際に祭祀が行われた事を証明する磐座として全国的に貴重な遺跡です。三つの岩塊からなり、時代によりそれぞれの祭祀場所は異なりますが、基本的には南面が祭場となります。この事より神宮寺川の治水を祭っていたのではないかと云われています。

5. 二宮神社・足切観音堂

足切観音堂について

宗良親王は延元元年(1336年)と同3年(1338年)の二度井伊谷城に入場して北朝軍と戦いましたが、高師泰・師兼の猛攻撃に合い、三岳城・千頭ヶ峯城・大平城と落城。信濃、北陸に転戦され、吉野山に戻られましたが、73歳で薨去されました。
宗良親王はある日、戦いの最中に流れ矢を受け落馬しましたが、従者が介抱に伺っても不思議な事に傷跡がありませんでした。その夜、お念持観音像を見ると足の辺りが血に染まっていました。宗良親王は「吾が身代わりになりたり」とさらに信仰心を深められたと伝わっております。

6. 井殿の塚

天文13年(1544年)井伊家の家督争いに乗じ、当主井伊直宗の弟、直満・直義の兄弟が「武田側に誼を通じた」と老中小野和泉守の讒言により、二人は今川家へ釈明のため駿府に召喚され謀殺されてしまいました。里人達がこれを哀れんで屋敷跡に祭ったものです。以後井伊家では、当主直宗、直盛の相次ぐ戦死、先代直平の毒殺死、嫡養子直親の謀殺と悲劇が続きました。直親の嫡男直政は直盛の娘次郎法師(直虎)と大叔父南渓和尚により育てられ15歳で徳川家康公にお目見え叶い、後に徳川四天王となりました。

7. 井伊氏居館跡の図

井伊氏居館跡の図

井伊氏居館跡の図

江戸時代の武家屋敷の区割りや、井伊家の屋敷跡が紹介されています。
当時の町割りを思わせる細い路を通り抜けると、御堀と石垣の跡が見えます。

8. 龍潭寺

龍潭寺は、天平5年(733年)、行基菩薩創建の古刹。元祖井伊共保に始まり徳川四天王筆頭の直政公、幕末の大老直弼公など、井伊家を祀る菩提寺としても有名です。小堀遠州作の庭園は江戸時代初期に作られた池泉鑑賞式。昭和11年(1936年)に国の名勝庭園に指定されました。秋の紅葉など、四季折々、うつろう庭園を眺めながら抹茶(予約制)をいただくこともできます。左甚五郎作の竜の彫刻、うぐいす張りの廊下なども見どころです